同じ文章を二人が別々の言語へ訳したとき、単語の対応だけを比べても、二つの翻訳が「同じ働き」をしているかは判断できません。言い換え、引用、要約といった操作を加えても、それぞれの訳文が一貫して対応するか。必要なのは、出来上がった文章の見た目ではなく、翻訳と操作の順序を入れ替えても結果がずれないという保証です。
関手は、構造を保ちながら別の圏へ移す翻訳でした。自然変換は、その関手どうしを比較します。ただし、「二つの翻訳は何となく似ている」と評する概念ではありません。一方の関手で移してから変換する道と、先に変換してから他方の関手で移す道を、すべての対象と射について一致させます。この道順の整合性こそ、圏論が「同じことをしている」という言葉に与えた精密な意味です。
関手どうしを比較するための自然変換
圏Cから圏Dへ向かう二つの関手FとGを考えます。FもGも、Cの対象をDの対象へ送り、Cの射をDの射へ移します。ここまでは二通りの翻訳が並んでいるだけで、両者の関係はまだ定まっていません。
自然変換α: F ⇒ Gは、Fによる翻訳結果をGによる翻訳結果へ移す仕組みです。Cの各対象Aに対して用意するのは、Dの射 αA: F(A) → G(A)。これを自然変換の「成分」と呼びます。対象Aが変われば成分も変わるので、自然変換は一本の射ではなく、対象全体にわたる射の族なのです。
ただし、成分を好きなように選んだだけでは自然変換になりません。個々の対象ではF(A)からG(A)へ移れても、Cの射によって対象を動かした途端に対応が崩れるかもしれないからです。「自然」という語が担うのは、次に見る一貫性の条件です。
対象ごとの成分を束ねる一つの規則
成分αAは、Aごとに独立して発明する部品ではありません。A、B、そのほかどの対象に対しても、同じ考え方から定まる必要があります。集合なら、集合Xの各要素を一要素だけのリストへ入れる操作 x ↦ [x] が典型です。Xが自然数の集合でも人名の集合でも、要素の意味を調べずに同じ規則を適用できます。
ここでいう「同じ規則」は、プログラムのソースコードが文字どおり同一という意味ではありません。圏論が検査するのは、対象間の射に対して振る舞いが整うかどうかです。要素の名前や並び順など、圏の射が保存しない事情へ依存する選び方は、別の対象へ移したときに破綻します。
自然変換は、無数の成分を一本の原理で統率します。局所的にはαAという射が見え、全体としてはFからGへの一つの変換として働く。この局所と全体の結び付きが、単なる対応表との違いになります。
二つの道順を一致させる自然性の正方形
Cに射 f: A → B がある場面を考えましょう。Fはこれを F(f): F(A) → F(B) へ、Gは G(f): G(A) → G(B) へ移します。F(A)からG(B)へ至る道は二つ。一つはαAで右へ進んでからG(f)で下り、もう一つはF(f)で下りてからαBで右へ進む道です。
αA→
G(A)
F(f)↓
G(f) ∘ αA
=
αB ∘ F(f)
G(f)↓
F(B)
αB→
G(B)
自然性条件を式にすれば、G(f) ∘ αA = αB ∘ F(f)。正方形のどちら側を通っても合成が同じになるため、この図式は「可換」と呼ばれます。距離が等しい、終点がたまたま同じ、といった話ではありません。等しいのは二つの合成射そのものです。
しかも、この等式は都合のよい一本のfだけでなく、Cにあるすべての射について成立しなければなりません。自然変換が強い制約になるのはそのためです。対象ごとの成分がばらばらに振る舞う余地を、圏全体の射が封じています。
一要素リストに現れる操作順序の一致
集合と関数の圏Setで、恒等関手Idとリスト関手Listを比べてみましょう。Idは集合XをそのままXへ送り、ListはXを「Xの要素からなる有限リスト全体の集合」List(X)へ送ります。各Xについて ηX(x) = [x] と定めれば、ηX: X → List(X) という成分が得られます。
関数 f: X → Y があるとき、xを先に一要素リスト[x]へ入れ、その各要素へfを適用すると[f(x)]になります。反対に、先にxをf(x)へ移し、それを一要素リストへ入れても結果は[f(x)]。したがって List(f) ∘ ηX = ηY ∘ f が成り立ちます。
結果だけを見れば、どちらも一要素リストを返す単純な例です。重要なのは、XとYの中身や関数fの種類を問わず、同じ等式が成立すること。整数を文字列へ変える関数でも、人を所属部署へ対応させる関数でも、要素を包む操作と要素を移す操作は衝突しません。この一様さが自然性です。
mapとリスト反転が交換できる理由
自然変換は、異なる関手の間だけでなく、一つの関手から同じ関手への変換にもなります。各集合Xについて、リストの順序を逆にする関数 reverseX: List(X) → List(X) を考えてみましょう。これはListからListへの自然変換です。
リスト[x1, x2, …, xn]の各要素へfを適用してから反転すると、[f(xn), …, f(x2), f(x1)]になります。先に元のリストを反転し、その後でfを各要素へ適用しても同じ並び。式では reverseY ∘ List(f) = List(f) ∘ reverseX と表せます。
反転は要素の値に立ち入らず、リストという構造上の位置だけを扱います。一方のmapは値を変えても、並びを組み替えません。二つの操作が担当する層が分かれているため、順序を交換できます。自然性の正方形は、このような「操作が干渉しない」という設計上の性質を、印象ではなく等式で示します。
対象の性質に便乗すると自然性は崩れる
一要素リストの例を少し変え、集合Xが有限なら[x, x]、無限なら[x]を返す成分βX: X → List(X)を作ったとします。どの集合にも関数を一つずつ割り当てているので、見かけだけなら変換の族になっています。しかし、これは自然変換ではありません。
無限集合Xから一要素集合Yへの定値関数fを考えると、先にβXを使う道では[x]ができ、List(f)によって[f(x)]へ移ります。もう一方の道では、先にfでYへ移したあと、有限集合用のβYが[f(x), f(x)]を返します。一要素と二要素のリストは一致せず、正方形が可換になりません。
この反例が示すのは、「すべての対象で何かを選べる」ことと「その選び方が自然である」ことの隔たりです。対象を孤立させて見つけた都合のよい性質が、射で結んだあとも保てるとは限りません。自然性は、個別事情へひそかに依存した選択を見つけ出す検査にもなっているのです。
座標を選ばないベクトル空間から二重双対への写像
ベクトル空間Vから、その双対空間V*のさらに双対であるV**へは、標準的な線形写像を作れます。ベクトルvに対応させるのは、V*の線形汎関数φを受け取りφ(v)を返す評価写像にほかなりません。記号では evV(v)(φ) = φ(v)。
線形写像 T: V → W に対しても、この対応は自然性の正方形を可換にします。vを先にT(v)へ移してからW**へ入れても、vをV**へ入れてからTが誘導する二重双対上の写像で移しても、任意のφに同じ値φ(T(v))を返します。基底を一つ選び、その座標表示を経由して作った偶然の一致ではありません。
有限次元ならevVは同型ですが、無限次元では一般に全射ではありません。それでも自然変換であることは変わりません。自然性と可逆性は別の条件だからです。この例は、自然変換が「どの対象でも同じ大きさに対応させる」概念ではなく、射との整合性を求める概念だとよく示しています。
対象ごとの同型より強い自然同型
自然変換αのすべての成分αAが同型なら、αは自然同型と呼ばれます。各対象についてF(A)とG(A)がたまたま同型であるだけでは足りません。その同型を、すべての射に対して自然性条件を満たすよう一貫して選べることが必要です。
たとえば有限次元ベクトル空間Vとその双対V*は次元が等しいため、個別には同型を作れます。しかし一般の同型V → V*を定めるには、基底や内積などの追加データが要ります。座標系を変えたときにも同じ選択が保たれるとは限りません。これに対し、VからV**への評価写像は追加の基底を要求せず、線形写像と整合します。
「どれも同じ形にできる」と「同じ形にする標準的な方法がある」は、数学的には大きく異なります。自然同型は後者を表し、任意の選択へ依存しない同一視を可能にします。圏論で「同型を除いて同じ」と述べる際にも、どの種類の自然さが求められているかを確かめなくてはなりません。
自然変換を射とする関手圏
圏Cから圏Dへの関手を集めると、それら自身を対象とする圏を作れます。関手FからGへの射は自然変換であり、その合成は各対象Aにおける成分の合成です。各関手には、すべての成分が恒等射である恒等自然変換も備わります。こうして得られるのが関手圏DC。
ここで階層が一段上がります。最初の圏では対象の間に射があり、関手圏では「圏全体の翻訳」の間に自然変換が置かれます。しかも自然変換どうしも、成分ごとに再び合成できるのです。関係を運ぶ仕組みそのものが、さらに別の関係の対象になる。圏論が繰り返し同じ形式を使える理由が、ここに現れます。
この反復は抽象化のための言葉遊びではありません。複数の数学的構成を比較し、比較の比較を組み立てるために必要な構造です。自然変換が合成できるからこそ、小さな整合性を積み上げて、より大きな証明や構成を管理できます。
「自然」が圏論の出発点になった歴史
圏、関手、自然変換は、1945年にサミュエル・アイレンベルグとソーンダース・マックレーンが発表した論文「General Theory of Natural Equivalences」で一般的に定式化されました。題名が示す通り、主役は圏そのものより「自然な同値」でした。異なる方法で構成されたホモロジー群などの間に、選択に依存しない対応があることを厳密に述べる必要があったのです。
歴史の順序は、圏論の狙いをよく表しています。まず対象を分類する巨大な箱として圏が発明され、その後で関手や自然変換が追加されたわけではありません。数学で以前から使われていた「自然な対応」という判断を定式化するため、関手が必要になり、関手の定義域と値域を語るために圏が必要になりました。
したがって自然変換は、入門書の定義一覧に並ぶ三番目の用語にとどまりません。圏論が何を明らかにしようとして誕生したのかを最もよく伝える概念の一つです。対象の内部ではなく、構成どうしがどれほど一貫して連動するかへ目を向ける。その視線が、ここで初めて鮮明になります。
道順の一致が定める「同じ働き」
自然変換は、二つの関手の結果が似ているかを測る尺度ではありません。各対象Aに成分αAを置き、すべての射fについて自然性の正方形を可換にする構造です。局所的な変換が、圏全体の移動と矛盾しないとき、FからGへの一つの整った変換とみなせます。
一要素リスト、リスト反転、二重双対への評価写像は、扱う対象も目的も異なります。それでも、先に対象を動かすか、先に成分で変換するかという二つの道が一致する点は共通。自然性は「同じやり方」という曖昧な直感から、対象の名前や偶然の表現に左右されない部分だけを取り出します。
圏論らしさは、何かを同じだと大胆に言い切るところにはありません。どの道順が一致すれば同じ働きと認められるのか、その条件を図式と合成で明示するところにあります。自然変換を理解すると、可換図式は矢印を飾る図ではなく、複数の操作が一つの体系として整合していることを示す証明の骨格に変わるのです。