日本や英国では車が左側を走り、運転席は右側にあります。米国やフランスではその反対です。地球規模で交通網がつながる時代になっても、走行側は一つに統一されていません。
左か右かに、車両工学上の絶対的な正解があるわけではありません。馬や荷車の習慣、街道法、革命と帝国、植民地統治、隣国との接続が地域ごとの標準を作り、道路、信号、車両の設計へ固定されました。一度できた体系は、反対側へ変える費用が非常に大きいのです。
馬車時代の習慣を一つの俗説で説明できない理由
左側通行の由来として、「右利きの騎士がすれ違う相手に備えたため」という話がよく紹介されます。右手で剣を使うなら、相手を右側に置くため左を進むという説明です。直感的ではありますが、地域や時代を越えた交通規則全体を、これだけで説明する確かな記録はありません。
馬にどちら側から乗るか、荷を積んだ動物をどちらへ寄せるか、大型馬車で御者がどこに座るかによっても、都合のよい通行側は変わります。歩行者、騎兵、荷車が混在する道路では、単一の慣習が最初から全国へ及んだわけではありません。
歴史を確かめるうえで重要なのは、もっともらしい起源譚と、法律や道路運用として標準化された時期を分けることです。個々の旅人の習慣があったとしても、現代の交通体系になるには、公的な規則と車両設計が必要でした。
英国で法制化された左側通行
英国では、ロンドン橋の混雑を整理するため、18世紀に通行方向を定める措置が採られました。1773年の一般道路法、その後の1835年道路法などを通じ、左側通行が法的な原則として広がります。
産業革命で馬車交通が増え、街道網が発達すると、すれ違うたびに判断する余地は小さくなります。どちらか一方へ統一すること自体が事故防止と流れの安定に役立ちました。英国の鉄道も左側通行を基本とし、駅や信号設備がそれに合わせて築かれます。
やがて自動車が登場すると、道路の走行側に合わせて運転席、ヘッドライト、ワイパー、標識の位置が設計されました。左側通行は道路上の約束から、交通インフラ全体の規格へ変わっていったのです。
米国の大型荷馬車が後押しした右側通行
北アメリカでは、複数の馬をつないだ大型荷馬車が右側通行の定着に影響したと、米国連邦道路庁は説明しています。御者席を持たない荷馬車では、操者が左後方の馬に乗り、右手で鞭を扱うことがありました。
操者が道路の中央寄りに位置して対向車との間隔を見やすくするには、荷馬車を右側へ寄せるほうが都合よくなります。ペンシルベニア州は1792年、ランカスター・ターンパイクで右側通行を定め、ニューヨーク州やニュージャージー州なども19世紀初めに法制化しました。
もちろん、米国全土が一つの荷馬車習慣だけで変わったわけではありません。植民地ごとの慣行、独立後の道路法、欧州大陸との政治的・文化的な関係が重なっています。記録で追える制度化の過程は、剣や利き手だけの物語より複雑です。
フランス革命とナポレオンをめぐる説明の範囲
欧州大陸の右側通行は、フランス革命やナポレオンの征服によって広まったと説明されることがあります。革命期のフランスで右側通行が制度化され、フランスの影響下に入った地域へ規則が及んだことは、大陸の分布を考える重要な要素です。
ただし、すべての右側通行国がナポレオンによって直接変えられたわけではありません。地域ごとに先行する慣習があり、19世紀以降の法整備や国境交通も作用しました。現在の世界地図を、一人の皇帝の命令だけから導くことはできません。
それでも、政治的な支配が交通規格を広げる力を持った点は確かです。道路の側は国境を越えるたびに変わると危険であり、広い統治圏や隣接国が同じ方式を採るほど、統一の利益が大きくなります。
馬上の利き手、荷馬車、革命など一つの逸話だけでは世界の分布を説明できません。法制度と地域間接続が大きく作用します。
大英帝国の交通制度が残した左側通行圏
英国の植民地や強い影響下にあった地域では、左側通行が道路、鉄道、行政制度とともに導入されました。インド、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカなどが現在も左側通行なのは、この歴史と関係します。
ただし、旧英国領がすべて左側を守ったわけではありません。独立後、周囲の国と交通をつなぎやすくするため右側へ変更した国もあります。西アフリカのガーナは1974年、ナイジェリアは1972年に右側通行へ移りました。隣国との陸路接続が、旧宗主国から受け継いだ規格より重要になった例です。
日本の左側通行にも英国との関係が見られますが、道路交通と鉄道を分けて考える必要があります。明治期の鉄道建設では英国人技師と英国式技術の影響が強く、左側運行が定着しました。道路側の全国的な法制化は、その後の近代交通制度の中で進みます。
1967年のスウェーデン「ダゲンH」
走行側を国全体で切り替えた有名な例がスウェーデンです。同国は左側通行でしたが、隣国のノルウェーとフィンランドは右側通行で、国内を走る車の多くも左ハンドルでした。国境交通と車両の組み合わせに不都合が生じていました。
1967年9月3日、スウェーデンは右側通行へ変更します。この日は右側通行を意味するスウェーデン語から「ダゲンH」と呼ばれました。標識や信号、交差点、バス停を準備し、午前5時に車両をいったん停止させて反対側へ移す大規模な計画でした。
切り替えは道路の線を引き直すだけでは済みません。対向車線側に扉があったバスの更新、照明の調整、国民への周知、速度規制が必要です。この事例は、走行側が社会全体の設備に組み込まれていることを示します。
沖縄が1978年に「730」で左側へ戻った理由
日本国内にも走行側が変わった地域があります。沖縄では第二次世界大戦後の米国統治下で右側通行が採用されました。1972年に日本へ復帰した後もしばらく続き、1978年7月30日に全国と同じ左側通行へ切り替えられます。
変更日は「730」と呼ばれ、信号、標識、バス乗降口、道路の導線が一斉に改められました。島である沖縄には他国との陸続きの国境がありません。それでも、日本国内の交通法規と車両規格を統一する必要がありました。
左か右かは、それ自体の優劣より、周囲の制度と一致しているかが重要です。車両が増え、道路網が複雑になるほど、切り替えの負担は膨らみます。世界の走行側が今も二つに分かれるのは、古い習慣が惰性で残っただけでなく、積み上がった設備と国際関係が各方式を支えているためなのです。
運転席が道路の中央側に置かれる利点
左側通行の国では右ハンドル、右側通行の国では左ハンドルが一般的です。運転者を道路の中央寄りへ置くと、対向車との間隔や追い越し時の前方を確認しやすくなります。歩道側へ寄せる駐車や乗降には反対側の配置が便利な場合もあり、すべての車が一般則に従うわけではありません。
走行側の異なる国から車を持ち込んでも、直ちに走れないとは限りません。しかし、ヘッドライトの配光は対向車をまぶしくしないよう左右で異なり、料金所、ドライブスルー、追い越しの視界にも不便が生じます。道路の側は、ハンドルだけでなく車両の細部へ入り込んでいます。
国境で左側通行と右側通行が接する場所には、車線を立体交差させる橋や交差点が設けられます。中国本土と香港・マカオの境界、タイとラオスの一部国境などが例です。二つの方式は世界地図上で分かれていても、接点では具体的な土木設計によってつながれているのです。