旅先で買うマグカップを探していると、最初に一万円の品が目に入りました。次の店で見つけた三千円のカップは、ずいぶん手頃に感じられます。ところが、最初に千円の品を見ていたら、同じ三千円を「少し高い」と感じたかもしれません。
アンカリング効果とは、先に与えられた数値などが基準となり、その後の数値判断がそちらへ引き寄せられる現象です。船のいかりを意味する「アンカー」に由来します。ただし、最初の情報に影響されたら何でもアンカリング、というわけではありません。参考になる情報を使ったのか、関係の薄い数字にまで判断が引かれたのかが重要な違いです。
最初の価格が、相場の代わりになる瞬間
マグカップの例には、二通りの説明がありえます。一万円の品を見たことで、この土地の器には高いものもあると学んだのかもしれません。あるいは、一万円という数字が頭に残り、材料も作家も違う三千円の品まで安く感じたのかもしれません。
前者が新しい情報を使った相場の予想の更新なのに対し、後者では、比較の妥当性が曖昧なまま数字が基準になっています。日常の観察だけで両者を完全に区別するのは難しく、研究では、判断対象と関係のない数値を提示するなどの方法で影響を調べるのです。
つまり、アンカリングを知るうえで大切なのは「最初の値段を信じるな」ではありません。その数字が、これから判断するものについて何を教えているのかという問いです。信頼できる比較対象なら使う意味があり、無関係な数字なら使う根拠は乏しい。この違いを保たないと、有用な情報まで捨てることになってしまいます。
国連加盟国の推定を動かした、ルーレットの数字
トヴェルスキーとカーネマンが1974年の論文で紹介した有名な実験では、参加者はルーレットの数字を見たあと、国連加盟国に占めるアフリカ諸国の割合を推定しました。先に、実際の割合がその数字より大きいか小さいかを答え、続いて自分の推定値を出す手順です。
十という数字から始めた群の推定値の中央値は二十五%、六十五から始めた群では四十五%でした。回転盤の数字は国際情勢を教えてくれる資料ではないにもかかわらず、後の推定は異なったのです。これは当時の実験結果であり、現在の国連加盟国の正しい割合を示すものではありません。
ここでの発見は、参加者がルーレットを信頼できる情報源だと思い込んだ、ということではありません。無関係だと分かる数字でも、それを上回るか下回るかと考える過程が、後の推定に影響しうる点です。
また、群の中央値が違うことと、全員が同じように動いたことは別です。アンカリングの図を見て、「十を見せれば誰でも二十五と答える」と解釈してはいけません。実験が捉えるのは、条件を変えたときの回答分布の違いなのです。
出発点から十分に離れられない「調整不足」
未知の値を推定するとき、私たちは完全な白紙から答えを生むとは限りません。知っている数値を置き、そこから増減させる方法があります。地図で見た山の高さが分からなければ、知っている山と比べて見当をつける、といった具合です。
この方法自体は便利ですが、出発点からの修正が不十分なら、最終的な答えが出発点の近くに残ります。三千メートル程度の山を基準に考え始めた人と、千メートル程度の山を基準にした人では、それぞれ修正しても離れ切れないかもしれません。ここでの山の例は、調整の仕組みを説明するための架空の場面です。
アンカリングは当初、このような調整不足と結びつけて論じられました。ただし、すべてのアンカリングが、頭の中で数字を少しずつ動かす過程を通るとは限りません。何を思い出すかが変わるという別の説明も重要です。
高い数字を考えると、高さを裏づける情報が集まる
ある塔が二百メートルより高いかと聞かれたら、どんな姿を想像するでしょうか。周囲の建物を大きく見下ろす塔、展望台、長いエレベーターなどが頭に浮かぶかもしれません。二十メートルより高いかと聞かれた場合とは、思い出す比較対象が変わりそうです。
StrackとMussweilerの1997年の研究は、アンカーと整合する知識が利用しやすくなるという選択的アクセス可能性の説明を検討しました。比較の問いに答えようとする過程で、特定の情報が活性化し、次の数値判断でも使われるという考え方です。
この説明では、数字が答えに直接コピーされるだけではありません。数字に合う理由を自分で思い浮かべ、その理由をもとに答える可能性があります。本人には「ちゃんと考えて出した答え」という感覚があっても、どの理由が頭に浮かんだかは、最初の問いに影響されているわけです。
図は、調整不足と選択的アクセス可能性を、理解のために分けたものです。実際の判断では、課題によって働く過程が違ったり、複数が関わったりします。「アンカリングの原因はこれ一つ」と決めつけるための図ではありません。
再現された効果と、予測できない個々の選択
心理学の有名な実験には、後から同じ結果が得られるかを検証したものがあります。2014年のMany Labsプロジェクトでも、複数の数値推定課題を使ったアンカリングが検討され、効果が確認されました。一つの研究室、一度の実験だけに依存しないことは、その現象を考えるうえで重要です。
とはいえ、再現されたからといって、あらゆる数字が、誰に対しても同じだけ効くわけではありません。正解をよく知っている問題と、まったく見当のつかない問題では、提示された数値が入り込む余地も違います。実験の課題、提示の仕方、もともとの知識を抜きに効果の大きさは語れません。
店頭で最初に高い価格を置いたあと売れたとしても、値札の効果だとは即断できません。品物の品質、展示の位置、接客なども候補です。心理学の用語を一つ当てはめることと、その売れ方の原因を確かめることは違うのです。
数字を見ない工夫より、独立した基準を持つ工夫
最初の数字を完全に避けることは、現実には難しいでしょう。買い物をするにも、地図を調べるにも、何らかの情報から始める必要があります。そこで考えられるのが、相手の数字を見る前に、自分が何を重視するかを具体化しておく方法です。
旅先の器なら、ふだん使える大きさか、重さはどうか、家にあるものと比べてどんな用途が増えるか。こうした情報から考えた評価と、値引き額を見て生まれた評価は区別できます。最初の数字を別の適当な数字で打ち消すのではなく、比較対象と根拠を増やすという方向です。
推定の場面なら、一つの出発点に都合のよい理由だけでなく、それより大きい可能性と小さい可能性をそれぞれ検討する余地があります。ただし、こうした工夫にも万能の効果はありません。根拠となる情報が間違っていたら、独立して考えても答えは外れます。
三人の意見が一致しても、三つの根拠とは限らない
旅行仲間が三人とも、同じカップを安いと言ったら、安心して買えるでしょうか。三人がそれぞれ別の店で似た品質の品を確かめていたなら、比較材料は増えています。しかし、三人とも最初に一万円の展示を見ていただけなら、共通の出発点を繰り返している可能性があります。
これは、アンカリングから考えられる判断上の問題であり、この三人の場面そのものを検証した実験結果ではありません。意見の数と、独立した情報源の数を区別するための例です。同じ数字をもとにした推定を何人分集めても、その数字に含まれる偏りが自動的に消えるとは限りません。
一方、作家の制作工程を知っている人、日用品としての耐久性を比べた人、同じ素材の市場価格を知る人なら、異なる理由を持ち寄れます。結論だけでなく、何と比べたのかを聞く価値があるのはそのためです。賛成する人数より、比較の根拠の広がりが役立つ場合もあるでしょう。
値段を忘れても、比較した理由が残る場合
一万円という正確な数字を思い出せなくなれば、影響も必ず消えるのでしょうか。選択的アクセス可能性の説明に沿えば、そう単純ではありません。最初の価格を見たときに「職人の手仕事だから高いのだろう」「旅先の品は特別だ」と考え、その理由が次の品にも当てはめられている可能性があるからです。
だからといって、思い浮かんだ理由がすべて誤りとも限りません。本当に手仕事の価値があるなら、それは評価に含めてよい情報です。確認したいのは、目の前の品にもその理由が当てはまるかどうか。一万円を忘れたかより、いまの三千円をどんな根拠で評価しているかのほうが、判断に近い問いになります。
三千円のカップを、三千円のカップとして選ぶ難しさ
一万円のカップを見たあとに三千円を安く感じること自体を、悪い経験と考える必要はありません。比較しながら物の違いを知るのは、買い物の楽しみの一つです。
それでも、買ったあとで「安く買えたのは確かだが、なぜこれが欲しかったのだろう」と思うなら、価格の出発点が品物の評価に入り込んでいた可能性があります。家で使うのは値引きの割合ではなく、そのカップなのです。
アンカリングが教えてくれるのは、最初の数字に必ず負けるという悲観ではありません。自分の答えを形づくった比較対象にも、選ばれた順番があるということです。一万円が目に入ったから三千円が安かったのか、それとも、その使い心地に三千円の価値を感じたのか。二つの問いを分けたとき、同じ買い物でも納得の中身が変わります。
参考資料
- Tversky, A. & Kahneman, D.(1974)Judgment under Uncertainty: Heuristics and Biases. Science, 185, 1124–1131. ルーレットと国連加盟国の推定、調整とアンカリング。
- Strack, F. & Mussweiler, T.(1997)Explaining the Enigmatic Anchoring Effect: Mechanisms of Selective Accessibility. Journal of Personality and Social Psychology, 73(3), 437–446.
- Klein, R. A. ほか(2014)Investigating Variation in Replicability: A “Many Labs” Replication Project. Social Psychology, 45(3), 142–152.