戸棚に、ほとんど使っていないマグカップがあります。もし店で見かけたら、千円でも買わないかもしれません。ところが、人から「千円で譲ってほしい」と頼まれると、その金額では惜しい気がする。同じカップなのに、買う側と手放す側で、納得できる値段が違うのはなぜでしょうか。
このずれを考える手掛かりが、保有効果です。ある品物を持っているという立場が、その品物の評価を高める現象を指します。ただし、売値と買値の差があれば、すべて保有効果というわけではありません。思い出、探し直す手間、失うことへの抵抗。その違いを分けると、持ち物の価値がどこから生まれるのかが、ずっと具体的になります。
買うための千円と、手放すための千円
カップを持っていない人にとって、購入は「千円を手放して、カップを得る」選択です。一方、持ち主にとって売却は「カップを手放して、千円を得る」選択。どちらもカップと千円の交換ですが、今ある状態から何がなくなるかは逆になります。
経済学では、購入に出せる上限を支払意思額、手放す代わりに受け取りたい下限を受取意思額と呼びます。たとえば、買うなら八百円まで、売るなら千五百円以上という回答なら、両者の差は七百円。これは説明用の数字で、保有効果に決まった倍率があるという意味ではありません。
ここで興味深いのは、物の性能が何も変わっていないことです。容量も、重さも、絵柄も同じ。それでも「これから手に入れる品」と「すでに自分のところにある品」では、比較の出発点が違うのです。保有効果は、値段を品物だけの属性として考えると捉えにくい現象といえるでしょう。
無料のマグカップから始まった交換実験
長年使った品なら、愛着が湧いても不思議ではありません。では、受け取ったばかりの品でも評価は変わるのか。カーネマン、クネッチ、セイラーが1990年に発表した研究では、参加者の一部にマグカップを無作為に渡し、売買の機会を設けました。
実験では、持ち主が売却に求める金額と、買い手が出そうとする金額に隔たりが生じ、単純な理論上の予測より取引が少なくなりました。価値を実験者が定めた引換券の取引では、同じような取引の少なさは見られません。何でも交換に不慣れだから売買が成立しなかった、という説明だけでは足りない結果です。
この実験の面白さは、持ち主が「もともとカップ好きだった人」に限られない点にあります。店で自分の好きな品を買った人を調べるだけでは、所有の影響なのか、最初から好みが強かったのかを区別できません。無作為に渡す手続きには、その二つを切り離す役割がありました。
自分で高い代金を払っていなくても、所有後に手放しにくくなる。少なくとも、この点は「買ったお金がもったいないから」という説明とは別です。無料でもらった物を整理できない場面を考えると、支出とは無関係な惜しさがあることにも気づくでしょう。
損失回避だけでは尽くせない「自分のもの」の価値
保有効果の代表的な説明が、損失回避です。何も持たない状態が基準なら、カップは新しい獲得。すでに持っている状態が基準なら、同じカップとの別れが損失になります。失う側の重みが増すことで、交換を受け入れる条件が厳しくなる、という考え方です。
ただし、保有効果は観察される評価の変化の名前であり、損失回避はそれを説明する仕組みの一つ。両者を同じ意味で使うと、ほかの説明を見失います。たとえば、自分の物になったことで長所に注意が向き、失う話が出る前から好ましく感じる可能性もあるでしょう。
モアウェッジらの2009年の研究は、所有していることと、売却によって失うことを実験的に分けました。その実験では、手放す予定がない所有者にも評価の上昇が見られ、所有そのものの寄与を支持する結果となっています。これは、あらゆる保有効果から損失回避を排除する結論ではなく、「所有」と「喪失」を別々に調べる必要性を示す証拠です。
日常のカップに戻るなら、「なくなると寂しい」と「自分の物だから素敵に見える」は、よく似ていても同じではありません。前者は別れの痛み、後者は持っている物への評価。現実には両方が重なり、持ち主自身にも境目がはっきりしないことがあるのです。
売値の高さを、そのまま心理の偏りと呼べない理由
売り手が高い金額を求めるのには、筋の通った理由もあります。気に入ったカップの買い直しに遠方の店まで出向くなら、その時間も負担でしょう。売るための梱包や発送が必要なら、提示額のすべてが手元に残るわけでもありません。
予算の違いも無視できません。欲しい気持ちは強くても、今月使えるお金が少なければ、買う側の上限額は低くなります。それに対して、手放す代償を答える場面では、同じ支出制約が直接はかかりません。品物の価値をどれだけ強く感じているかと、いくら支払えるかは別の問題です。
実験方法にも論点があります。プロットとザイラーの2005年の研究では、練習や評価手続きの説明などを工夫した条件で、支払意思額と受取意思額の差が消えました。参加者が価格をどう答えればよいか理解しているかによって、結果が変わる可能性を示した研究です。
売りたい最低額を聞かれても、「本当の下限を言うと、安く買いたたかれるのでは」と考える人はいるでしょう。この場合、回答は品物への純粋な評価というより、交渉上の希望額に近いもの。実験で交換の仕組みや報酬を丁寧に設計するのは、こうした別の事情を所有の効果と取り違えないためなのです。
使って分かった長所と、所有だけによる評価の変化
購入後に評価が高くなったとしても、所有以外に増えたものがあります。それは、品物についての情報です。店では気づかなかったカップの持ちやすさや、洗いやすさが分かれば、以前より高く評価することには十分な理由があるでしょう。持つ前と後で、同じ情報を使って比べているとは限りません。
試用した道具を返したくなくなった場合も、「借りたら自分の物だと思い込む」という一言では説明できません。実際に使って便利だった、必要な場面が見つかった、手元にある状態に慣れた。異なる変化が同時に起こりうるからです。所有の心理的な影響を確かめるには、使った時間や得た情報もそろえて比較する必要があります。
カップの実験から、長く使った楽器や道具へ話を広げる際にも、この違いは重要です。経験によって本当に分かった長所まで、所有のせいで高く見積もったと決めつければ、評価が高まった理由を逆に見失いかねません。品物の価値が変わったのか、知識が増えたのか、比較する立場が変わったのかは、別々に問い直せるのです。
思い出の価値と、市場で交換できる価値
旅先で買ったカップには、その土地で過ごした時間が結びついています。同型の新品に交換されても、同じ満足にはならないかもしれません。この場合、持ち主が評価しているのは器の性能だけではなく、その一個と自分との関係です。
中古品の相場が千円だからといって、持ち主にとっても千円が正解とは限りません。逆に、持ち主に五千円分の思い出があっても、買い手に同じ思い出まで渡せるわけではないでしょう。個人的な価値と、他人が交換に応じる価値は、もともと一致する必要がないのです。
たとえば、祖母から受け継いだ器と、昨日無作為にもらった新品を、同じ「手放せない物」として扱うのは乱暴です。前者には代わりのない来歴があり、後者にはそれがほとんどありません。保有効果を知ることは、愛着をすべて勘違いと切り捨てることではなく、価格に含めている価値の中身を区別することにつながります。
自作の品への愛着と、サンクコストとの違い
自分で組み立てた棚や、初めて焼いた器では、所有に加えて「自分が完成させた」という経験も関わります。ノートン、モコン、アリエリーの2012年の研究は、組み立て箱や折り紙などを使い、自作した品を高く評価するIKEA効果を調べました。その実験では、作業を完成できるかどうかが重要な条件となっています。
単に持っている場合と、手をかけて作った場合では、評価が高まる理由は同一ではありません。無料で渡された新品には制作の達成感がなく、自作の棚には、使い勝手に加えて完成の喜びがあります。一つの品に複数の価値が重なることも、珍しくないでしょう。
一方、「せっかく材料を買ったから、気に入らない棚づくりを続けなければ」と考えるのは、サンクコストに関わる判断です。こちらの焦点は、取り戻せない過去の負担が、これから続けるかどうかを左右すること。完成した棚を高く評価する話とは、問いの位置が違います。
同じ人が、自作の棚に愛着を持ち、手放すのを惜しみ、さらに修理費をかけ続けることもあるはずです。それでも、「自分で作ったから価値が高い」「失うのが惜しい」「ここまで払ったから続けたい」を分ければ、どこで判断が変わったかを具体的に説明できます。
持ち物を見直すときの、二つの比較
戸棚を整理するなら、いきなり「捨てるべきか」と問う前に、「今これを持っていなかったら、もう一度手に入れたいか」と考える方法があります。所有している状態からだけでなく、所有していない状態からも比べるための問いです。ただし、思い出や買い直す手間まで消して考える必要はありません。
もう一つは、手放す損失だけでなく、残すことで使えなくなるものを具体化することです。カップを保管する場所があれば、新しく使いたい器を置けないかもしれません。棚に余裕がある場合と、毎日片づけに困っている場合では、保管の負担も違うでしょう。
そこで、説明用に二つの状況を比べてみましょう。旅の思い出がある一客を、十分な余裕のある戸棚に残す場合。来歴のない十客を、取り出すたびに崩れそうな棚へ押し込む場合です。どちらも「使っていないカップ」ですが、残す理由も、そのために失う便利さも同じとは限りません。使用回数だけで同じ結論を出す必要はないのです。
売却を考えるときには、相手が買うのは何かという視点も加わります。持ち主が保管に費やした年数や思い入れではなく、品物の状態、使い道、代わりに選べる商品が買い手の比較対象です。自分にとって惜しい金額と、相手が買いたい金額が離れていても、どちらかが不誠実とは限りません。交換しないことが双方にとって納得できる場合もあります。
保有効果が教えるのは、「持ち物を安く評価し直せ」ということではありません。すでに持っているという事実が、比較の出発点を変えるということです。残したい理由が思い出なのか、使う予定なのか、それとも手放す場面で急に生じた惜しさなのか。その理由が分かれば、残すにしても譲るにしても、自分の選択を説明しやすくなります。
参考資料
- Kahneman, D., Knetsch, J. L., & Thaler, R. H. (1990). Experimental Tests of the Endowment Effect and the Coase Theorem. Journal of Political Economy, 98(6), 1325–1348.
- Morewedge, C. K., Shu, L. L., Gilbert, D. T., & Wilson, T. D. (2009). Bad riddance or good rubbish? Ownership and not loss aversion causes the endowment effect. Journal of Experimental Social Psychology, 45(4), 947–951.
- Plott, C. R., & Zeiler, K. (2005). The Willingness to Pay-Willingness to Accept Gap, the “Endowment Effect,” Subject Misconceptions, and Experimental Procedures for Eliciting Valuations. American Economic Review, 95(3), 530–545.
- Norton, M. I., Mochon, D., & Ariely, D. (2012). The IKEA effect: When labor leads to love. Journal of Consumer Psychology, 22(3), 453–460.