旅先の小さな店で、店主が地元のお菓子を一つ試食させてくれました。味は悪くないけれど、買うほどではない。それでも、何も買わずに出るのは少し気が引ける。代金を請求されたわけでも、購入を約束したわけでもないのに、不思議です。
返報性とは、相手から受けた好意や協力に、こちらも応えようとする性質を指します。「返報性の法則」という呼び方もありますが、必ずお返しをするという法則ではありません。行動経済学で重要なのは、人が自分の受け取る量だけでなく、誰が、どんな意図で働きかけたかによっても選択を変える点です。
無料のお菓子に生まれる、値札のない負担
試食で変わるのは、味についての知識だけではありません。「わざわざ用意してくれた」という受け止め方も生まれます。味を知ったから欲しくなる場合と、好意に応えたいから買う場合では、同じ購入でも理由が違うでしょう。
さらに「断ったら気まずそうだ」という感覚が加わるかもしれません。感謝、親しみ、借りを返したい気持ち、場の気まずさは互いに関係していても同一ではなく、本人の中でも簡単には分けられません。試食した人が買ったという観察だけで、原因を一つに特定できないのはそのためです。
返報性は、この複雑な場面のすべてを説明する合言葉ではありません。先に受け取った働きかけが、後の相手への応答を変えるという関係を取り出す概念です。商品の価値とは別に、人とのやりとりが判断材料になるところに注目します。
飲み物とくじ券で調べた、好意とお返しの違い
Reganが1971年に発表した実験では、実験協力者から清涼飲料を受け取る条件などを設けたうえで、その協力者からくじ券の購入を頼まれたときの反応が調べられました。飲み物をもらうことと、相手に好感を持つことを区別しようとした研究です。
好意を受けた条件では協力者の依頼に応じる行動が増え、分析は、単に相手を好きになったことだけでは説明しきれない、お返しへの規範的な圧力を示唆しました。仲良くなったから助けたのか、もらったから応えたのか。この二つを同じものと扱わない点が重要です。
もちろん、一つの実験が、あらゆる贈り物への反応を決めるわけではありません。何を、誰から、どんな関係で受け取るかによって、意味は変わるでしょう。むしろ「好感を持っているか」と「断りにくいか」を別の問いにできることが、この研究の面白さです。
自分の得を減らしてでも応える「社会的選好」
地域の催しで、隣の出店者がテーブル運びを手伝ってくれたとしましょう。片づけの時間になり、相手が困っていたら、自分の帰宅を少し遅らせてでも手を貸したくなるかもしれません。時間だけを数えれば、こちらには負担が増えています。
それでも、相手の負担が減ることや、受けた親切に応えることに価値を感じるなら、その選択は理解できます。他人の結果や他人との関係も評価に含める好みを、経済学では社会的選好と呼びます。人との関係を考慮することを、すべて計算の間違いとして扱う必要はありません。
返報性が教えるのは、人は実は常に損をしている、という話ではないのです。何を得と感じるかに、相手への応答が含まれる場合がある。自分の財布や時計だけでは、人の選択を十分に表せない理由がここにあります。
同じ手助けでも異なる、自発的な親切と割り当てられた作業
隣の人が自分から気づいてテーブルを運んでくれた場合と、運営から担当として割り当てられていた場合。こちらが助かった量は同じでも、感じる親切の意味は同じでしょうか。
FalkとFischbacherが2006年に発表した返報性の理論では、相手の行為の結果に加えて、その意図が評価に関わります。自分に有利な結果が生じても、相手にほかの選択の余地がなかった場合と、自由に選んでくれた場合では、応答が違いうるという考え方です。
ここで扱われるのは、相手の心の中を直接知る能力ではありません。相手が何を選べたか、どの案を見送ったかという状況から、親切の意味を判断する過程です。同じ一時間の手助けでも、受け取る側が理解する背景によって、その一時間の価値は変わります。
結果の公平さと、応えたい気持ちは別の軸
催しの片づけを、二人で半分ずつ分担したとします。時間の配分だけを見れば公平でしょう。ところが、前の準備を一人がほとんど引き受けていたなら、「片づけは自分が多めにやろう」と感じることもありそうです。
一回の分配が均等かどうかと、それまでの行為にどう応えるかは、別の評価です。返報性を単なる五分五分への好みと考えると、この違いが抜け落ちます。同じ半分ずつでも、協力の履歴によって納得が変わるわけです。
ただし、どこからどこまでを一連のやりとりとして数えるかは、相手と一致するとは限りません。こちらは先月の手伝いを覚えていても、相手は別の機会に返したつもりかもしれません。「同じだけ返してほしい」の中に、何を受け取ったと数えるかという、もう一つの判断が隠れています。
約1万通の寄付依頼に表れた、贈り物の影響
実験室の外でも、贈り物の影響は調べられています。Falkの2007年の研究では、慈善団体と協力し、約1万通の寄付依頼を無作為に、贈り物なし、小さな贈り物、大きな贈り物の三条件へ分けて送りました。
贈り物なしの条件に比べ、寄付をした人の割合は小さな贈り物で相対的に17%、大きな贈り物で75%高くなりました。「受け取った人の75%が寄付した」という意味ではありません。基準となる寄付率からの増え方を表す数字です。
この結果は、先に渡すものが現実の行動に影響しうることを示しています。ただし、贈り物を大きくすればどの活動でも同じ割合で反応が増えるという予測はできません。団体への信頼、受け取る人との関係、贈り物の内容まで変われば、別の条件になるでしょう。
返報性と、将来の見返りを期待する協力
今日テーブルを運んでおけば、次回は自分も助けてもらえる。そう考えて手伝う場合は、将来の利益を見込んだ協力です。一方、もう会うことのない旅先の人に、親切のお礼として何かを返したいと感じる場合もあるでしょう。
どちらも協力に見えますが、前者は将来の見返りが重要で、後者は受けた行為への応答が重要です。現実の関係では両方が重なることもあり、表面の行動だけでは区別できません。評判をよくしたい、周囲から冷たい人と思われたくない、といった別の動機も考えられます。
経済学が実験の匿名性や、同じ相手と再び会うかを工夫するのは、この違いを調べるためです。Sobelの社会的選好と返報性に関する展望論文も、相手の結果そのものへの配慮と、状況に応じた応答を区別しています。親切を一種類の動機へ押し込めないほうが、人の行動を細かく理解できるのです。
好意のお返しと、不親切への対抗
返報性には、好意へ好意を返す方向だけでなく、不親切に対抗する方向もあります。共同作業で一方だけが手を抜いたと感じた人が、次回は協力を控える、といった場面です。相手を困らせるために、自分にも負担が生じることさえありえます。
こうした負の返報性を含めると、協力が続く理由だけでなく、対立が長引く理由も考えられます。一方は「先に不公平な扱いを受けたから戻しただけ」と考え、もう一方は「突然冷たくされた」と受け止める。互いに反応のつもりでも、やりとりは悪化しかねません。
だからといって、対抗や制裁がすべて同じ心理で起きるわけではありません。ルールを守るための行為、被害を防ぐための行為、怒りによる行為には区別が必要です。返報性は、相手の行為への応答という一つの視点を加えるもので、すべての対立を説明するものではないのです。
感謝を伝えることと、品物を買うことの分離
冒頭の試食に戻りましょう。お菓子をくれたことには感謝しても、家族の好みに合わず買わない。その二つは両立します。「ありがとうございます、おいしかったです」と伝えることと、必要な商品を選ぶことは、別の判断でしょう。
無料の試食を受け取っただけで、購入の約束が自動的に成立するわけではありません。心理的な借りの感覚があることと、実際に合意した条件があることを混ぜると、気持ちが先に取引の内容を決めてしまいます。
反対に、気に入ったお菓子を買い、親切な店主を応援したいと思うことまで疑う必要はありません。味の満足と、人への感謝を両方大切にする買い物もあるはずです。返報性を知る意味は、感謝を消すことではなく、どの気持ちが何の選択に関わっているかを理解する点にあります。
先に渡す贈り物と、条件付きの謝礼の違い
「参加してくれたら記念品を渡します」と「記念品を同封しました。参加をご検討ください」は、似ていても同じ提案ではありません。前者では、何をすれば何を受け取るかが、あらかじめ条件として結びついています。
後者は、参加を決める前に品物が手元へ届く形です。受け取った品をどう評価するか、贈った相手をどう感じるかが、その後の判断に関わりえます。ただし、この違いだけで後者のほうが必ず参加を増やすとは言えません。頼んでいない品を送られて困る人もいるでしょう。
返報性を理解するには、品物の価格だけでなく、渡すタイミングと条件も重要なのです。Falkの寄付研究が調べた先行する贈り物を、条件付きの購入特典と同じ仕組みとして扱うと、何が実験で確かめられたのかが曖昧になります。
同じお返しでも異なる、負担の大きさ
車を持つ人が荷物を運び、車を持たない人がお礼に案内状の文章を整える。地域の催しなら、こんな助け合いも自然でしょう。同じ作業を返しているわけではなく、それぞれが得意な形で相手の負担を減らしています。
もし運転で助けられたら運転で返すべきだと決めると、免許のない人は好意を受け取りにくくなります。正確な金額へ換算して返そうとしても、時間や労力の負担は、人の事情によって違うはずです。同じ一時間だから同じ重さとは限りません。
ここでの例は、特定の実験の結論ではなく、返報性を日常の協力へ当てはめたときに生じる論点です。相手が返せないことと、返したくないことを同じにすると、感謝がないと誤って受け止めるかもしれません。相手の意図を評価するには、何を選べる状況だったかという情報も必要になるのです。
返せる余地があるから、受け取れる親切
親切にすぐ同額のお返しをしなければならないなら、小さな好意さえ受け取りにくくなるでしょう。地域の手伝いも、友人からのお土産も、その都度正確に決済する取引とは違います。
先に助けてもらい、別の機会に手を貸す。相手が忙しければ、今回は自分が引き受ける。そうした時間の幅や事情への配慮があるからこそ、やりとりを続けやすい面があります。すぐに同じものを返すことだけが、相手に応える方法ではありません。
返報性を「相手を動かすために先に与える技術」とだけ理解すると、この関係の豊かさを取り逃がします。行動経済学の視点では、ものの価値だけでなく、与えられ方と応え方にも価値がある。無料のお菓子が気持ちを動かすのは、値札の外側にも、人が判断する材料があるためなのです。
参考資料
- Regan, D. T.(1971)Effects of a Favor and Liking on Compliance. Journal of Experimental Social Psychology, 7, 627–639. 好意、好感、依頼への応答の区別。
- Falk, A.(2007)Gift Exchange in the Field. Econometrica, 75, 1501–1511. 贈り物を伴う寄付依頼の無作為化フィールド実験。
- Falk, A. & Fischbacher, U.(2006)A Theory of Reciprocity. Games and Economic Behavior, 54, 293–315. 行為の結果と意図を含む返報性のモデル。
- Sobel, J.(2005)Interdependent Preferences and Reciprocity. Journal of Economic Literature, 43, 392–436. 社会的選好と返報性の理論的な整理。