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行動経済学入門

ゼロリスクバイアスとは 一つの心配をなくすと、全体の損失を見落とす理由

公開日

展示会へ送る作品の梱包を、もう少し丈夫にすることになりました。ある種類の傷みを完全になくせる方法と、二種類の傷みを合わせてもっと多く減らせる方法。費用が同じなら、どちらを選ぶでしょうか。「一つでも心配がなくなる」と聞くと、前者に特別な安心を感じるかもしれません。

ゼロリスクバイアスとは、一部のリスクを完全になくすことを重く評価し、全体ではそれ以上のリスクを減らせる案より優先してしまう傾向です。安全を大切にすること自体が問題なのではありません。注意が「ゼロにできる一部分」へ集まったとき、別の場所に残る損失が判断から抜け落ちる。そこに、この概念の核心があります。

一つをゼロにする案と、全体を多く減らす案

仕組みを比べるため、同じ大きさ・同じ価値の複製画を100枚発送する、架空の例を考えます。今の梱包では、角折れが平均4枚、表面のこすれが平均8枚に起きるとしましょう。一枚に二種類の傷みが重なることはなく、修復の手間も同じという条件です。

対策Aでは、角折れを4枚からゼロにできるものの、こすれ8枚は残ります。対策Bなら、角折れは4枚から2枚、こすれは8枚から3枚に減少。どちらも費用は同じで、ほかの作業への影響もないとします。

対策Aで防げる傷みは4枚、対策Bでは7枚です。対策後に傷む枚数も、Aは8枚、Bは5枚。「傷む複製画をできるだけ少なくする」という目標ならBが有利でしょう。しかし、Aには「角折れの心配がなくなる」という、Bにはない明快さがあります。

対策前は角折れ4枚とこすれ8枚。対策Aは0枚と8枚、対策Bは2枚と3枚。Aは4枚、Bは7枚の傷みを防ぐ。
図1 同じ価値の複製画100枚について、同じ費用で対策する架空例。二種類の傷みは重ならず、損失の重さも同じとしています。数値は長期的な平均の設定です。

「100%改善」が隠してしまう、母数の違い

角折れ4枚をゼロにする改善率は100%です。一方、こすれ8枚を3枚にする改善率は62.5%。この二つの割合だけを見れば、前者のほうが優れているように感じるかもしれません。

ところが、減った枚数は前者が4枚、後者が5枚です。改善率を計算するときの出発点が違うため、割合の大小と、救える枚数の大小は一致しません。対策Bではさらに角折れも2枚減るので、全体の違いはもっと大きくなります。

割合が役に立たないのではありません。改善率は、もともとあった問題のどこまでを解決したかを表しています。ただし、限られた費用で何枚を守れるかを考えるなら、改善率に加えて出発点の枚数が必要です。「100%」という数字だけで、全体の最適な選択までは決まりません。

1993年の研究が取り上げた、完全除去への選好

Baron、Gowda、Kunreutherの1993年の研究では、有害廃棄物の処理をめぐる簡略化した仮想場面を用い、判断の傾向が調べられました。論文は、いくつかの場所のリスクを完全に除くことへ偏った選好があると報告しています。

対象は実際の災害対応の成否ではなく、条件を絞った質問への回答です。現実の環境対策には、責任、公平性、技術的な実現可能性などが加わるため、回答結果だけで特定の対策を良い悪いと評価することはできません。

それでも、一部分の完全な解決が、全体の改善と別の魅力を持つという問いは残ります。先ほどの複製画は、その比較を日常の規模へ移した説明用の例であり、原論文の実験結果を作品の発送で再現したものではありません。

残る心配の「数」と、起きる損失の「量」

角折れがゼロになれば、確認項目を一つ消せます。発送後に「角は大丈夫だろうか」と気にかける必要もなくなるでしょう。対策Bでは、どちらの種類の傷みも残るため、チェックリストは二項目のままです。

ここには、損失を減らす目標とは別に、考え続ける問題を減らしたいという目標があります。頭の中では、傷む5枚よりも「まだ二種類の心配がある」という数え方が目立つのかもしれません。これは事例から考えられる評価の違いであって、ゼロリスクバイアスの原因を一つに断定する説明ではありません。

気がかりが減る価値も、現実には無視できないでしょう。完全除去によって日々の検査を省けるなら、人の時間も節約できます。その効果が十分に大きければ、対策Aを選ぶ合理的な理由になりえます。最初の架空例で「ほかの作業への影響はない」と置いたのは、この追加の利点を混ぜずに比較するためです。

同じリスク削減でも変わる、説明の出発点

リスクの減少を、今ある問題を改善する話として示すか、理想の状態からどれだけ問題が残るかとして示すか。数値が同じでも、注目する位置は変わりそうです。「4枚をすべて守れる」と「ほかに8枚の傷みが残る」では、同じ対策Aの違う面が前に出ます。

Ritov、Baron、Hersheyによる1993年の研究は、複数の低確率リスクの削減をどう評価するかについて、参照点と言い方の影響を検討しました。全体のリスク削減量が同じ案でも、一方を大きく減らすか、双方を少しずつ減らすかという選好が、提示の仕方やゼロにできるかによって変わったのです。

つまり、ゼロの魅力は単独の数字だけに宿るとは限りません。何を出発点とし、何を成果として伝えるかとも結びつきます。これは、同じ内容の示し方が選択を変えるフレーミング効果との接点です。

ゼロリスクバイアスと、単なるリスク回避の違い

失敗するかもしれない方法より、成果の確かな方法を選ぶ。それだけでは、ゼロリスクバイアスとは言えません。結果のばらつきを嫌うことや、大きな失敗を避けたいことには、別の理由がありえます。

今回の対策AとBは、どちらも長い目で見た平均枚数を比べる設定でした。Aだけが確実に実現でき、Bの性能は十分確かめられていないという状況なら、比較する情報が変わります。不確かな見積もりの「7枚」と、十分な検証がある「4枚」を、同じ確かさの数字として扱うわけにはいきません。

また、損失を利得より重く感じる損失回避とも同義ではありません。ゼロリスクバイアスが問題にするのは、リスクを減らす二つの案の間で、完全除去が特別な重みを持つこと。損を嫌う心理全般を、一つの名前でまとめているのではないのです。

完全除去を選ぶほうがよい場合

ここまでの計算では、角折れもこすれも同じ重さの損失でした。もし角折れした作品は展示できず、軽いこすれなら展示に支障がないとしたら、どうでしょう。傷んだ枚数をそのまま足すだけでは、結果の価値を比べられません。

さらに、角折れした一枚が原因で展示の組み合わせ全体が成立しなくなるなど、損失が連鎖する場合も考えられます。一つの失敗が起きると結果が急に変わる仕組みなら、その種類をゼロにする価値は枚数以上になるでしょう。

「ゼロを好んだからバイアス」と判断すると、こうした事情を見落とします。比較に必要なのは、損失の重さ、連鎖の有無、対策の確かさ、維持するための負担です。それらが同等なのに、ゼロという境界だけで全体の改善を取り逃がす場合に、問題が鮮明になります。

実績ゼロと、起きる可能性ゼロの隔たり

梱包を変えて100枚送ったところ、角折れは一枚もありませんでした。これで、角折れが起きる可能性はゼロと考えてよいでしょうか。試した範囲で起きなかったことと、今後も起きないことは別です。

単純な確率モデルで、一枚ごとに1%の確率で角折れし、各発送の結果が独立なら、100枚すべて無傷で届く確率は0.99の100乗、約36.6%あります。小さなリスクが残っていても、100枚の実績がゼロになることは珍しくないのです。

この計算は、実際の梱包の故障率を推定したものではありません。天候や輸送工程が同じなら傷みがまとめて起こり、独立という条件が崩れることもあるでしょう。それでも、「観察したゼロ」を「可能性のゼロ」へ置き換えてはいけない理由は理解できます。

部分の成果を、全体の結果へ戻す比較表

「角折れ100%減」という報告は、間違いでなくても、発送全体の品質を説明し尽くしてはいません。対策前の枚数、減る枚数、残る枚数を横に並べると、成果がどこに生じ、問題がどこに残るかを同じ画面で確かめられます。

たとえば、Aについて「角折れ4枚を防ぎ、こすれ8枚は残る」、Bについて「合計7枚を防ぎ、角折れ2枚とこすれ3枚が残る」と示す方法です。割合だけの場合と違い、ゼロになった部分が全体を代表することを防げます。

同じ期間、同じ発送枚数、同じ重さの傷みを比べているかも重要でしょう。100枚中の4枚と1万枚中の8枚を足し合わせたり、軽い擦り傷と修復不能の破損を同列にしたりすると、今度は合計値のほうが実態を隠してしまいます。

二つのリスクを、そのまま足せない場合

複製画の例では、角折れとこすれが同じ一枚に重ならない条件を置きました。もし両方の傷みが一枚に起きたら、角折れの枚数とこすれの枚数を単純に足すと、その一枚を二回数えることになります。

たとえば、角折れ4枚、こすれ8枚のうち、両方がある作品が2枚なら、傷みのある作品は4+8−2で10枚です。傷みの箇所を数えたいのか、無傷で届いた作品を増やしたいのかによって、適切な集計も変わるでしょう。

「全体を見る」とは、手元の数字を何でも合計することではありません。守りたい単位をそろえ、同じものを重ねて数えていないかを確かめることです。ゼロだけに注目しない工夫をしたのに、全体を表す数字が誤っていたら、比較は再びずれてしまいます。

一種類だけ直すことで、別の問題が増える可能性

実際の梱包では、角を頑丈にするために素材を増やすと、重くなったり、開封しにくくなったりするかもしれません。これは角折れの改善率には出てこない変化です。費用が同じでも、対策の影響がその箇所だけにとどまるとは限りません。

逆に、一つの素材変更が、角折れとこすれの両方を減らす場合も考えられます。対策AとBを独立した選択肢として比べる前に、同時に改善できる方法がないかという問いもありえるでしょう。最初の二択は、現実に存在する全案を尽くしたものではありません。

ゼロリスクバイアスの例題には、条件を絞って比較を鮮明にする役割があります。実際の対策を決める段階では、その条件を戻さなければなりません。どこが改善され、どこに負担が移り、別の組み合わせなら何が変わるか。部分の達成率だけでは、このつながりを捉え切れないのです。

安心を減らさず、見落としを減らすための数字

完全に解決した問題が一つあることは、確かにうれしい成果です。ゼロリスクバイアスを知ることは、その喜びを否定したり、残る危険に慣れたりするためではありません。

大切なのは、なくなった心配と、全体として守れたものを、別々に数えることです。両者が同じ方向へ進むなら、迷いは小さいでしょう。違う方向へ進むなら、何を守り、何を残す選択なのかが初めて問われます。

複製画を届けたい相手にとっては、梱包担当者のチェックリストが一項目減ったことより、作品が無事に届くことが大切かもしれません。部分のゼロを達成したあとにも全体を確かめる。そのひと手間で、数字の上の完全さと、目的にとっての改善が結びつきます。

参考資料

行動経済学入門

行動経済学の理論