パリの地下には、かつて建物に使う石を切り出した採石場が残っています。地上の街並みを支える材料を、地下から取り出した。そのため、都市の成長は建物を増やすと同時に、その足元へ空間を残すことにもなりました。
この関係を生んだのは、パリ周辺が海だった時代の石灰岩です。ただし、地下採石場のすべてが納骨堂だったわけではなく、パリ全域の地下が一つの空洞につながっているわけでもありません。石が生まれた時代、石を掘った時代、その跡を再利用した時代には大きな隔たりがあります。
約4500万年前の浅い海が残した建築用の石
パリの石として知られるルテシアンの石灰岩は、始新世の海で堆積した物質からできました。ルテシアンという地質時代の名称は、パリの古名ルテティアに由来します。町の名前が、その地下に残る海の時代を区分する言葉にもなったのです。
石灰岩の中には貝などの化石が含まれます。建物の壁をつくる素材が、もともとは海の生物や炭酸塩の堆積と関係していたことを示す証拠です。硬さや粒の細かさは層によって異なり、どの層でも同じ用途に適するわけではありません。
採石では、必要な品質の石が得られる層を選ぶことが重要でした。地下の空間の広がりも、単に掘りやすい方向へ進んだ結果ではなく、利用できる石の層を追った結果なのです。
地表から掘る採石場が、地下の坑道へ変わった理由
古代には、ビエーヴル川の谷など、石灰岩が地表近くに現れる場所で露天採掘が行われました。上に覆いかぶさる土や岩が少なければ、地表から石を切り出せます。ところが、良い石の層を奥へ追うほど、取り除く覆いは厚くなる場合があります。
そこで、目的の層の高さに坑道を延ばす地下採掘が発達しました。地表の土をすべて除く代わりに、使いたい石の層へ横から、あるいは立坑から到達する方法です。石を上へ運び出す仕組みも必要でした。
地下に残る通路は、自然の川が石灰岩を溶かした洞窟とは区別しなければなりません。石灰岩だから自動的に大きな空洞ができたのではなく、パリの採石場では人が建材を持ち去ったことが、その空間の直接の理由です。
地層の由来と採石の違いを示した模式図です。パリの実際の街区断面ではなく、建物・採掘空間の年代関係や深さ、柱の寸法を再現していません。納骨堂は採石場跡の一部の後世の用途です。
石を取れば失われる、天井の支え
地下の石を多く採るほど、上の地層を支える部分は減ります。採石場では一部の石を柱として残す方法や、切り出した後に石を積んで支える方法が使われました。掘ることと支えることは、別々にできる仕事ではありません。
さらに、坑内の石くずを壁で囲って詰める方法も発達しました。現在通れる通路だけを見て、昔の採掘範囲を推定することはできません。掘った空間の一部は、埋め戻しや補強によって姿を変えているためです。
都市が採石跡の上まで広がると、地下で失われた支えが地上の問題になります。18世紀には陥没が相次ぎ、1777年に採石場を調査・管理する組織が設けられました。石材を供給した地下を、今度は地上の街を守るために調べ直す必要が生まれたのです。
採石場の一部を納骨堂にした、18世紀末の転用
パリのカタコンブは、最初から骨を納めるために掘られた施設ではありません。墓地の過密などが問題となった18世紀末、古い採石場の一部が遺骨の移転先に選ばれました。石材を取り出した空間に、別の役割が与えられたのです。
この順番を逆にすると、パリの地下全体が巨大な墓として掘られたように思えてしまいます。実際には、採石の歴史が先にあり、納骨堂として利用されたのはその一部です。公開されている見学区間と、採石跡の全体も同じ範囲ではありません。
名前はローマの地下墓地にちなんでいても、成り立ちまで同一ではありません。地下空間の用途は変わっても、壁に残る石灰岩と採掘の痕跡は、以前の仕事を伝えています。
石灰岩、石膏、埋め戻しがつくる地下の地域差
パリとその周辺で利用されてきた材料は、石灰岩だけではありません。石膏、砂、粘土なども採られ、分布する層や地域によって地下の事情は異なります。「パリの地下」と一括りにしても、掘られた材料も深さも一様ではないのです。
地上の建築から地下へ視点を移すと、街の外観が地域の地質と結び付いていることに気付きます。海が残した石を人が切り出し、その跡を補強し、部分的に再利用する。パリの地下は、古い自然と都市の仕事が重なった場所です。