黒海には魚が泳ぎ、沿岸には港町があります。それでも深い場所へ進むと、溶けている酸素がほとんどない水が広がります。海面が空気に触れ、海峡で他の海ともつながっているのに、なぜ深層へ酸素が届かないのでしょうか。
軽い表層水と重い深層水が混ざりにくい一方、沈んだ有機物の分解などで酸素が使われるためです。海峡という入口があっても、それだけで深い海全体に十分な酸素が行き渡るわけではありません。
川の淡水と、海峡から入る塩辛い水
黒海へはドナウ川などの河川が淡水を運び込む一方、ボスポラス海峡を通じてマルマラ海側から塩分の高い水も入ります。川と海峡は、性質の異なる二種類の水の入口になっているのです。
温度など他の条件が同じなら、塩分の低い水は軽く、塩分の高い水は重くなります。軽い水が上、重い水が下にある配置は、簡単には入れ替わりません。この密度差を乗り越えて混ぜるには、相応のエネルギーが必要なのです。
海面が荒れている日でも、その攪拌が海底まで届くわけではありません。黒海には非常に深い部分があり、表層の変化と深層の水の更新は、異なる速さで進みます。
深さや層の厚さは実測値ではありません。境界は場所・季節・年代で変わります。海峡からの流入や局所的な混合などは省略しています。
水深そのものではなく、酸素の供給と消費の差
深い海はすべて無酸素、ということではありません。外洋の深層には、別の海域で冷えて沈み込んだ水などによって、酸素が運ばれています。黒海では深い水が更新されにくく、供給が限られることが重要です。
表層で増えたプランクトンの遺骸などは下へ沈み、その有機物の分解に酸素が使われます。酸素が少なくなるのは、水が塩辛いから酸素を一切溶かせないためではありません。混合や移流による補給より、消費の影響が強くなるからです。
栄養分が増えて有機物の生産や沈降が増えれば、分解に必要な酸素も増える可能性があります。酸素不足は水の混ざり方だけでは決まらず、上の層でどれだけ有機物が生産されるかともつながっているのです。
「水深何メートルから無酸素」と固定できない境界
黒海の酸素については、「水深150メートルより下」などの説明を見かけます。しかし、境界は海全体で水平な一枚の板のようになっているわけではありません。場所、季節、年によって、酸素の分布は変わります。
2016年の研究は、1955〜2015年の観測をまとめ、黒海の酸素総量が減少し、酸素の到達する深さの海盆平均も浅くなったと報告しました。これは期間と平均方法を伴う研究結果であり、現在のどの地点でも同じ深さになるという意味ではありません。
冬の冷却で比較的冷たい中間層が形成されるなど、上層から中層には季節的な更新もあります。海を表層と深層の二色だけに分けた図は、基本原理を示す模式図であって、実際の細かな水塊をすべて表すものではないのです。
酸素のない深層でも続く微生物の活動
魚などが暮らしにくい深層を、「死の海」と呼ぶことがあります。ただし、生物がまったく存在しないという意味なら正確ではありません。酸素を使わない代謝を行う微生物が活動しています。
たとえば、海水中の硫酸イオンを利用した有機物の分解では硫化物が生じ、黒海の深層には硫化水素を含む水が存在します。私たちや魚に適さない環境でも、別の仕組みでエネルギーを得る微生物にとっては、活動の場になりうるのです。
微生物の活動と水の循環は、炭素や硫黄の形も変えます。黒海は単に酸素の不足した場所ではなく、酸素のある表層とは異なる化学反応が進む海でもあります。
深い水に残る有機物と、黒海が保存する環境の記録
酸素の乏しい環境では、一部の有機物が残りやすくなります。ただし、無酸素なら分解が完全に停止する、ということではありません。微生物による別の分解経路もあるため、何がどれだけ残るかは物質の性質に左右されます。
2021年には、黒海の溶存有機物に硫黄が結びつくことで、分解されにくい成分の蓄積に関わるという研究が報告されました。単に酸素がないことだけでなく、有機物自体の化学的な変化も保存に影響するという知見です。
海峡の形、淡水の流入、密度差、微生物の代謝。黒海の深層は、それらがつながった結果として成立しています。沿岸の青い水面の下には、表面からは想像しにくい、別の水の環境が広がっているのです。