ローマは「七つの丘の町」と呼ばれます。しかも、その丘には火山から来た岩石が含まれています。では、町の下に七つの小さな火山が並んでいるのでしょうか。そうではありません。
ローマの丘は、周辺の火山から広がった堆積物や、川が運んだ砂・泥などを、テヴェレ川と支流が削った結果です。火山が土地の材料を供給し、川が谷を刻み、削り残された高い部分が丘になりました。そこには、離れた海の水位が変わった歴史まで関係しています。
七つの火口ではなく、削り残された丘
伝統的な七つの丘は、パラティーノ、アヴェンティーノ、カピトリーノ、クイリナーレ、ヴィミナーレ、エスクイリーノ、チェリオです。これらはローマの歴史を語る区分であり、地質学的に市内の高まりを数えると必ず七つになる、という意味ではありません。
丘の間には谷や低地があり、古代の都市はそれらも利用しながら広がりました。現代では建物や道路が起伏を覆うため、一つ一つが孤立した小山のようには見えない場所もあります。
火山の噴火口を中心に盛り上がった円錐形の山とは、成り立ちが違います。丘の下の地層が火山由来でも、その丘自体が火山とは限らないのです。
北西と南東の火山が運んだ、ローマの地層の材料
ローマ周辺では、北西のサバティーニ火山地域、南東のアルバーノ丘陵の火山活動が、広い範囲に火山性の物質を供給しました。火山灰などが積もって固まった凝灰岩は、丘を構成する重要な岩石です。
一方、地面がすべて一枚の凝灰岩でできているわけではありません。川が運んだ堆積物も重なり、時代と場所によって地層の組み合わせが変わります。イタリア国立地球物理学火山学研究所は、カピトリーノの丘についても、火山堆積物と河川堆積物の重なりを説明しています。
火山と川は別々の時代に一度ずつ働いて終わったのではなく、長い期間にわたって土地をつくり替えました。そのため、丘の断面には複数の出来事が保存されています。
丘の成立を示す模式図で、ローマの七丘の配列や実際の地層断面ではありません。火山活動、河川の堆積・侵食、海面変化、隆起は繰り返し起きています。
氷期の海面低下が、内陸の川を変える理由
氷期に大陸の氷が増えると、海から陸上の氷へ移る水の分だけ、海面が低くなります。河口の水位が下がれば、そこへつながる川も流れの勾配や侵食の条件を変えます。海から離れたローマでも、テヴェレ川の谷を掘り込む働きに影響が及びました。
反対に、氷が融けて海面が上がる時期には、下流側で堆積物がたまりやすくなる条件が生じます。地域の隆起や火山活動も加わるため、海面だけで全過程が決まるわけではありません。それでも、氷期と間氷期の交代は重要な時間の軸になります。
ローマの地層の研究では、こうした海面変化と川の堆積・侵食の繰り返しを結び付けて、地形の歴史を復元しています。街角の坂道は、地中海と氷床の変化にもつながっているのです。
丘と丘の間を都市へ変えた、排水と整地
丘は低地より浸水を避けやすい一方、丘の間には水が集まります。ローマ市の解説によると、フォロ・ロマーノの場所も、かつては湿地状の土地でした。排水などの整備を経て、公共生活の中心へと変わっていきます。
都市は、地形の上に建物を置くだけではありません。低い土地を排水し、地面を整え、道を通すことで、もともと異なる条件の場所を一つの生活圏にします。丘の集落がそのまま完成した都市だった、というわけではないのです。
その後も建設や埋め立て、地面のかさ上げが重なりました。現在の舗装面の高さと、古代の地表の高さが一致しないのは、建物が古いというだけでなく、都市が地面そのものをつくり替えてきたためです。
火山の層が、川と人類の歴史の年代を教える
川の泥が、いつ積もったかをどう調べるのでしょうか。間に挟まる火山性の層に放射年代測定に利用できる鉱物があれば、噴火の年代を絞り込めます。その時刻の目印と上下の関係から、川の堆積物の年代にも制約を与えられるのです。
ローマ周辺では、この方法が古い人類化石を含む堆積層の年代の検討にも使われています。火山の岩石は丘の材料であるとともに、地層を比較するための時刻の目印にもなりました。
七つの丘をつくったのは、七回の単純な盛り上がりではありません。火山が積み、川が運び、海面が変わり、谷が深まり、人が低地を整える。その重なりの上に、現在のローマがあります。