カスピ海は「海」という名前なのに、世界最大の湖として紹介されます。塩水で、水平線が見えるほど広い水域。それでも地理の上では湖に数えられるのは、外洋へ自然につながる出口がないためです。
海か湖かを、水の味や大きさだけで区別すると、この場所は分かりにくくなります。カスピ海は、古い海の歴史を受け継ぎながら、現在は独立した流域の水収支で水位が変わる巨大な内陸水域なのです。
塩水でも湖、広くても内陸水域
湖にも塩分の高いものがあり、淡水であることは湖の必須条件ではありません。カスピ海の周囲は陸地に囲まれ、自然の海峡で外洋と水を交換していません。この点が地理的な分類の中心です。
「海」という名前には、水域の広さや沿岸からの見え方、呼び名の歴史が反映されています。地名は科学的な分類表として名付けられたとは限らないため、名称と分類が一致しなくても不思議ではありません。
船が運河などを利用して別の水系へ移動できることも、外洋と自然につながっていることとは別です。人工の交通路の有無で、湖の地理的な成り立ちが変わるわけではありません。
古い海から切り離された水域の歴史
カスピ海の成り立ちは、かつてユーラシアの内側へ広がっていた海の歴史と関係しています。地殻の運動や海面の変化によって海のつながりが変わり、外洋から隔てられた水域として発達してきました。
ただし、「古い海の名残」とは、太古の海水が一滴も入れ替わらず残っているという意味ではありません。川の流入や蒸発はその後も続き、水位や塩分も変わってきました。受け継いだのは地形と環境の歴史であって、密閉した瓶のような水ではないのです。
ボルガ川から入り、空へ出ていく水
カスピ海の水を大きく支えているのが、北から流れ込むボルガ川です。ほかの河川や降水も水を供給しますが、外洋へ流れ出す川はありません。
そのため、水位は入ってくる量と、蒸発などで失われる量の差に強く左右されます。流域で雨や雪が増えれば流入が増える方向に、蒸発が大きくなれば水位が下がる方向に働きます。上流での取水など、人間の利用も無関係ではありません。
水収支の主要な要素を示す模式図です。降水や地下水なども関わり、矢印の太さは実測値ではありません。輪郭は実際の地図ではありません。
外洋の海面が上がったからといって、その水が自動的にカスピ海へ流れ込むわけではありません。世界の海面上昇と、内陸のカスピ海の水位低下が同時に起こりうるのは、水の出入り口が異なるためです。
流入量と蒸発量は、水位の変化そのものではなく、水位を動かす要因です。たとえば前年より川の水が増えても、蒸発の増加がそれを上回れば、水位は下がることがあります。川が増えた写真と後退した湖岸の写真があっても、必ずしも食い違う証拠ではありません。
浅い北部と深い南部で異なる水際の動き
カスピ海の北側には浅い水域が広がり、南側にははるかに深い盆地があります。同じ水位変化が起きても、海岸線の移動する距離は同じではありません。
なだらかな斜面を水が覆っている場所では、水位が少し下がるだけで広い湖底が現れます。一方、急な斜面では水際の水平移動は比較的小さくなります。水位を縦の変化、面積を横の変化として区別すると、衛星写真の大きな変化も理解しやすいでしょう。
NASAが2022年に紹介した北部の衛星画像でも、水位低下によって浅い沿岸部が陸化する様子が確認されています。水域全体を平均した数字だけでは、沿岸の港や湿地が受ける変化は表せません。
塩分が教える、川と蒸発の釣り合い
カスピ海の塩分は外洋と同じではなく、場所によっても差があります。川の淡水が多く入るところは薄まりやすく、蒸発が進み、水の交換が限られたところでは濃くなりやすいからです。
水が蒸発しても、溶けている塩類の多くは残ります。ただし濃度が無限に上がるわけではなく、鉱物として沈殿するなど、水中から取り除かれる経路もあります。「湖だから淡水」「海だから一定の塩分」という分け方では、こうした出入りを説明できません。
淡水を加えれば塩そのものを取り除かなくても濃度は下がり、水だけを減らせば塩を追加しなくても濃度は上がります。巨大な水域でも、濃度を決めるのは水と塩の量の割合です。
カスピ海は、大きさでは海を思わせ、水の循環では湖として振る舞う場所です。その二つを分けると、呼び名の不思議だけでなく、水位が独自に変わる理由までつながります。